歩ける足があり、見える目があるということ
2年前の秋、最愛の祖母が亡くなった。
いつも私の家に会いにきたってろくに喋らず、
寝転がって寝てばかりで
思えば、祖母とじっくり話したことって、
実はそんなにない。
そもそもそんなに喋る人じゃなかった。
祖母は眼が見えなかった。
盲目じゃないけれど、光がわかる程度で、
視力の殆どは人影くらいしか分からない。
もともと見えていた眼が病気を発病し、
そこからあっという間に見えなくなって
視覚障害者としての人生が始まった。
眼が見えないくせに、久しぶりに私に会うと
「…あんた太ったね?」と
ケタケタ笑って言う。
そう言うところがすきだった。
誕生日に毎年必ずくれた電話がかかってくることはもうない。
あまり話さない人だったけれど、
孫の私を大事にしてくれてることがよく伝わる、
そんな人だった。
その祖母の葬儀で、叔父と再会した。
叔父は、私が生まれた時には、
もう身体が自由に動かなかった。
20代前半のとき、事故で体の自由を失った。
電動車椅子に乗って、
健常者の70代より圧倒的に早いスピードで移動する。
指先と表情以外を動かすことは難しい。
その叔父との話が
自分に一言では表しきれない
何か大きなきっかけをくれたように思う。
叔父は言った
「学びたいことや、やりたいことがあるなら、あなたは今からでも始められる。
本を読むことも一人ではできず、
人より疲れやすい不自由な身体は
長く集中を保つことも難しい。
旅行好きであっても、行きたいところには
たった一人では行けない。
身体障害者であっても、長く会社勤めをしてきた叔父は、これからの余生もお金に困る生活になることはない。
どれだけ高額なお金を積んでも
どうしたって買えないものがある。
欲しくても二度と手に入らないものがある。
世界中の大多数の誰もが、
当たり前に手にできる日常と可能性は
どれだけ望んでも得られない。
多くの人が当たり前のように
恵まれた可能性を持っているのに
それには気づかず
みたい景色を見る事ができ、
五体満足健康な身体であるにも関わらず
出来ない理由ばかり探してしまう。
人は手にしているものの価値ほど見えない。
あなたに出来ない理由はない。
いつか教員に戻りたくなったら、
それだってあなたは簡単にできる。」
30年以上、度々顔を合わせる事があった叔父が
こうした話をしたのは初めてだった。
自分一人では決断できないことを
多くの人に背中を押してもらってきた。
進路を選ぶとき、
仕事に就くとき辞めるとき、
どの道が正解かなんて誰にもわからない。
分からなくてもいいから
怖くて不安で面白そうな方の道を進んでみる。
正解は自分がそこからつくるものなのだ。
中学3年生にそうやって指導したのは自分なのだから!
迷うことはまだまだあるけど、
命短し 歩けよ乙女
計画性のなさ
32歳でフィリピンに行ってみて
なんなら行く前から明確に
推測はしていたのだけれど
「なんでもっと若いうちにやんなかったかなぁ」
やっぱりこう思う瞬間ってある。
これは30歳手前勢の誰もが
一度は頭に浮かぶ考えらしく
同じ意見をぶら下げて、持て余していた人物に
何人もフィリピンで出会った。
私もそのうちの一人だ。
なにやってんのって思う人だっているだろう。
じゃあ早く行動に移しなよって
8年前の自分に、タイムマシーンにのって
会いに行ってみたとする。
その8年前の自分ははなんて言うだろうか?
「っでも今は仕事したいし、仕事が大事だから!!!」
誰を使ってどんな言葉で説得したって
1000%跳ね除けて
第一優先事項だった仕事を選んだに違いないし
タイムマシーンに乗って
過去を変えに行ったところで
それは絶対に変わらない。
そしてだからこそわかることがある。
教員をやらなかったら、
新しい道は開けていないし、選んでもいない。
20代前半から海外に関心があったとしても
あの頃の自分には、大きなリスクを背負える自信も度胸もなかったんだから。
ありとあらゆる生徒と同僚に出会って、
泣いたり笑ったり、叱って励まして
体中の細胞フル動員で人を応援していく中で
新しい道を自らの意志で選ぶことのできる自分に変わっていった
そりゃ嫌なことだって泣いたことだって
たくさんあるけれど
彼らに出会わなければ今の自分はいない。
世界中に語学を学ぶ方法なんて
五万とあふれている中で
同じ期間に、あんな小さな町の山奥の語学学校を
偶然にも選んだあの素敵な人たちには
出会えていない。
レベル65になると空を飛ぶを覚えるらしい。
それまでいろんなポケモンに出会って戦って、
そうやってやっとこ空を飛ぶを覚えるように
自分にも相応の修行が必要だったのだ!💡
(ポケモンは技マシンで一発で覚える方法があるんだけど)
うん。いい加減に自分がちょっとお馬鹿で
結果オーライ。
大丈夫。どうせうまくいくんだから。
絶望的な計画性のなさと
素晴らしい出会いに乾杯!
帰国備忘録
常夏のフィリピンから帰国して一週間が経った。
涼しいバギオの生活と打って変わって8月の日本は暑い。
朝の天気予報士が「今年は10年に一度の酷暑です」って、
毎年恒例のごとく言っているお馴染みの風景が過ぎていく。
けたたましく早朝を知らせる蝉の鳴き声が、これでもかと言わんばかりに
ここが日本のであることを寝ぼけた頭に叩き込んでくれた。
おせっかいにもほどがある。
それがシンと静まり返ったのは、帰国して5日目の朝だった。
夏が過ぎ去る前に、この一週間で慌ててそれらしいイベントを詰め込んで、
即席の夏を満喫した。
32年目になると、夏のイベントは一週間で十分だ。
これからのことを少し記録に残そうと、
そう思ったのは、かれこれもう半年以上も前なのに、
ようやく重い腰を上げて動き始めたのは
一か国目の滞在が終わった後だった。
行動力なんていうエネルギッシュなものはどうやら持ち合わせていないらしく、
飽きっぽい性格のおかげでこれがいつまで続くのかはわからない。
だけれど、バギオへ旅立つ際に、経験者のブログを読み漁って
あーでもこうでもないと情報を集めていたあの時を思い返すと、
これから記録していくことが、人知れず誰かの役に立つことがあるかもしれないとも思う。
32歳で教職公務員というこの世で最も安定した職を放り出して、
海を越えた先に勉強しにいく。
同じ境遇の人が一人くらいいるんじゃないかって
経験者のブログを探しても見当たらなかった。
それだけ突拍子もないことに挑もうとしていることがなんとなくわかった。
見当たらない分あの時はほんのりと不安が増した気がした。
だからって時を戻すことなんてできっこないし、
戻すつもりだってこれっぽっちもなかったわけだから。
ないならなんだ。
作ってみよう、
やってみよう。
それっきゃない。
できっこないをやらなくちゃ。
ブログの最初の記事かくってむずかしいね